この記事は塾生獲得実践会の森智勝氏のご厚意により、全国学習塾援護会のHPから転載したものです。
先月号で骨折という我が身の不幸を嘆いた原稿を校了した直後、未曾有の大災害が東日本を襲いました。未だに余震が続いています。被災された方の苦痛を思えば、何と女々しい文章を書いたものだと自己嫌悪に陥ります。あらためて震災の犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
前回、子供たちには「自分ひとりが幸せになるために勉強するのではない、100万人を幸せにする人物になるために勉強するのだ」というメッセージを送ってほしい旨の話をしましたが、震災の悲惨さを目の当たりにして、いよいよその思いが強くなりました。我々の究極の使命は「より良き未来」を創ることであり、それに資する人材を輩出することです。あなたの塾から、そうした人物が育つように心から期待しています。ぜひ、子供たちに伝えて下さい。「今の1万人は救えなくても、未来の1万人を救える人になれ」と。それは、大地震、大津波にも耐えうる原発の設計者かもしれません。有事に適確な判断を下せる政治的リーダーかもしれません。あるいは、原発に代わる自然エネルギーの開発者も必要でしょう。巷で言われているように、完全復興に数十年の歳月が必要ならば、その期間の社会を支え、リードするのは、間違いなく今の青少年達です。彼らが今回の震災を契機として大きな志を持つことを期待します。同志社大学の村田先生がテレビ番組でおっしゃっていました。「現地のボランティアに駆けつけるのも尊いが、今、学生が最も為すべき社会貢献は、一生懸命勉強することだ。」…全く同感です。
この1ヶ月、テレビコマーシャルの自粛により、ACジャパン(旧公共広告機構)のメッセージビデオが大量に放映されています。中には、震災時に相応しくないと苦情が殺到した内容のものもあったようですが、作り方自体は「さすが」と思わせるものばかりです。中でも「あいさつの魔法」は大評判のようで、一緒に「ポポポポ~ン」と歌っている小さな子供たちが全国にいます。今年大学を卒業した我が娘も口ずさんでいます。
もともと「挨拶」とは、禅問答から出てきた言葉です。「挨」は軽く触れること。「拶」は強く触れること。押したり引いたりの意味があり、師弟関係の力量調べのことを言います。「慣れ合いではない関係」を表す言葉です。
塾生たちも必ず見ているCMですので、こうした解説を少ししてあげるといいかもしれません。また、挨拶には「あなたのことを見ていますよ」という意味も込められています。昔は「お天道様が見ているよ」と言って悪事を戒めたのですが、それに加えて近所の大人たちが頻繁に子供たちに声を掛けたものです。登校途中の子供、放課後に公園に行く子供に…。そうすることで、「あなたのことを見ていますよ」という暗黙のメッセージが伝わり、子供たちの自制心を育ててきました。
今は、「お天道様が…」と言っても意味が通じないかもしれませんが、挨拶の効用は生きています。少なくとも、教室にやって来た塾生とは一人残らず挨拶をすべきです。「私が(我々教師が)君のことを見ていますよ、あなたの存在を認識していますよ」というメッセージを送ってあげることです。教室に滞在する間、誰とも言葉を交わさずに帰って行く塾生を絶対に作ってはいけません。
「こだまでしょうか。いいえ、誰でも。」の詩も印象的です。作者の金子みすず(本名:金子テル)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した詩人です。わずか26歳で夭逝(自殺)しています。最も有名な作品は「私と小鳥と鈴と」でしょうか。「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」のフレーズは印象的です。それにしても、あの詩が遠く大正時代に作られたことは驚きです。
300以上の校歌を作ったことで知られる詩人の宮澤章二氏の詩も心に沁みます。
「こころ」はだれにも見えないけれど 「こころづかい」は見える 「思い」は見えないけれど 「思いやり」はだれにでも見える
この一節は「行為の意味」という詩の要約です。
-行為の意味- -----あなたの<こころ>はどんな形ですか と、ひとに聞かれても答えようがない 自分にも他人にも<こころ>は見えない けれど ほんとうに見えないのであろうか 確かに<こころ>はだれにも見えない けれど<こころづかい>は見えるのだ それは 人に対する積極的な行為だから 同じように胸の中の<思い>は見えない けれど<思いやり>はだれにでも見える それも人に対する積極的な行為だから あたたかい心が あたたかい行為になり やさしい思いが やさしい行為になるとき <心>も<思い>も 初めて美しく生きる -----それは 人が人として生きることだ
私はマーケティングを論じる時、「思いは形に表さないと相手に伝わらない」というフレーズを好んで使いますが、宮澤氏の詩に接したことがヒントになりました。塾人ならば誰でも教育に対する熱い思いを持っています。学習指導を通して子供たちの成長を促したいと願っています。ですから、宿題も出しますし、居残り・呼び出し授業もします。テスト前には教室を開放して対策授業も実施します。その熱意には本当に頭が下がります。しかし、「あなた」が思っているほど「あなたの思い」が相手(生徒・保護者)に届いていないことが多いのも事実です。なぜなら、「思い」を「形」にして表していないからです。
せっかくテスト前補講を実施しても、それを文章で告知し申込書を提出させている塾がどれほどあるでしょうか。多くの塾が、授業中に口頭で伝えることで済ませてしまっています。すると、保護者まで情報が届いていない可能性が高い。また、その重要性が理解されず、生徒の出席率も低い補講になってしまいます。その度に「私がこんなに熱心にやっているのに何故、子供たちには理解されないのだろう」と悩むことになります。あげくには「わざわざ休日を潰して補講をしているのに、なぜ休むんだ!」と生徒を怒鳴りつける教師もいます。酷な言い方ですが、それは「あなた」が悪い。
日本人は言霊の世界を生きていますので、思いを言葉にする習慣を持っていません。「沈黙は金」「以心伝心」等の言葉に象徴されるように、日本人は言葉で表現することを苦手とする民族です。しかし、言うまでもなく我々はテレパシー能力を有しているわけではありません。やはり、文章で説明することが必要です。それが「形」にするということです。紹介が欲しいならば「紹介状」を作る。家庭学習を促すならば「計画表」を作成させる。そうした一つひとつの小さな積み重ねを経て初めて、あなたの思いは届きます。
ぜひ、この震災を契機として「あなた」の思いを子供たちに、保護者に伝えて下さい。今こそ、あなたの教育に掛ける思いの強さが試されています。